”ナポリ ”の街”ポンペイ”の遺跡

・・・・・”ポンペイ ”・・・・・

”ポンペイ”はヴェスヴィオス山の山麓地帯に紀元前8世紀に建設されたという。
その古代都市”ポンペイ”が紀元79年ヴェスヴィオス山の大噴火によって一夜にして灰の下に埋もれてしまった。
”ポンペイ”の名前はいつの頃からか「ポンペイ最後の日」(確か書名?)とともに私の記憶の中にずーっと残っていた。
ああ~ここがその”ポンペイ”なのだという思いで今回訪れることができた。


車窓から見たヴェスヴィオス山
富士山とよく似て・・・・

古代都市ポンペイ

古代都市ポンペイって??
紀元前8世紀に建設されたというポンペイ。
その後ギリシャ植民地の時代を経てローマの支配下になりながらも独自の自治権をもち続けたという。
地の利に恵まれ漁業・農業生産(特にワイン)・交易で富を得た貴族や商売人(自由民)たちの住む中心地域として栄えていった。
その後大悲劇の予兆ともいうべき大地震にみまわれる。

ヴェスヴィオス山大噴火(紀元79年8月24日)
地震の後の普及作業の最中のポンペイの町を突然の大噴火が襲う。
あまりにも突然であまりにも強力な大噴火は三日間も続きポンペイの町は高さ6メートル以上の火山灰層の下に埋もれてしまったという。
そしてこの町のすべての人々と悲劇の瞬間の人々の暮らしぶりをそっくりそのまま閉じ込めてしまったのだ。

発掘の歴史
1500年末から1600年にかけてある建築家が運河の発掘をしていて古代の建造物が偶然発見された。
がこの遺跡の重要性は明らかにされないまま。
その後一世紀半後ブルボン王朝のシャルル3世のもと本格的に発掘がおこなわれる。
1800年代は高価品の発見を目的とした発掘が行われた。
それ以後は現場を可能な限り完全に近い形で再現させる発掘が行われた。
そしてポンペイの町は奇跡的に再び世に姿を現したのだ。
(参考:ポンペイ遺跡ガイド)

ポンペイ復元図全景

古代都市ポンペイは市壁に囲まれ6つの門があった。
東西南北に走る道路で規則的な碁盤目状の町の構造になっていた。
町はブロックに別れ大劇場・闘技場・公設浴場・公設市場・商店・・など様々な施設が整っていた。


。。。。。。。。。。。。。。公共広場。。。。。。

広場は町の宗教・市民・経済活動の中心だった。
神殿・凱旋門・長い回廊・穀物倉庫・重量計測台・・・などなどが残されていた。


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エウマキーア館(羊毛職人組合)正面玄関   門柱にほどこされたうき彫



。。。。。。。。。。。。。。。道路。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
。。。。。横断歩道。。。。。。。。。。

道路は石畳で舗装され、飛び石状の横断歩道も整備されていた。
石と石の間隔は馬車が通られるようわだちの幅に創られていたそうだ。




。。。。。。。。。。市場跡。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

紀元前一世紀に建設されたという市場。
周囲は屋根付の露店が並び中央には丸屋根の建物あったという。
水槽が設置されていたり無数の魚の小骨が発見された事から
魚の販売が行われていたとされている。
。。。。。。。。。。。。。神殿。。。。。。


屋内市場

アポロ神殿




。。。。。。。。。水道。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

上下水道の設備も整備されていたあとが見られた。
水汲み場となっていた水道施設。
ポンペイの人々が手をついて水を飲んだため水槽の角がくぼんでしまったのだそうだ。
そのくぼみにそっと手を重ねると心は古代へ・・・古代のポンペイの人たちと握手した気分になってくる。



水呑場と水槽




。。。。。。。。。パン屋。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

当時のパン屋さんの設備。
パン焼き釜は今でもそのまま使えそう・・・
調理台は現代のシステムキッチンと勝るとも劣らぬ調理台・・・・


パン焼き釜と石臼

大理石の調理台
           
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モザイク画と彩色された壁画

ポンペイの富豪たちの住まいは花壇噴水のある中庭付の大邸宅だった。
その大邸宅玄関のモザイク画で「猛犬注意」を表している。

壁画は彩色されていて人々の生活がはっきりと知られた。
(写真がうまく取れてなくて・・・)

犬のモザイク画

彩色壁画



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。。。。。。。。。。。。公共浴場。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

紀元前80年ころ建設された浴場。

脱衣室・冷浴室・温浴室・中庭・屋外体操場などの設備が整えられていた。
円形の天井全体に筋が刻まれ湯気の雫が落ちないよう工夫されていた。
紀元前に創られた設備だとは・・・やっぱり驚くばかりだ。



大理石で創られた浴槽



。。。。。。。。。。。。発掘品。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

倉庫群跡に発掘品がいっぱいつまれて・・・

。。。。。。。。。。。。。石膏像。。。。。。

1860年ある考古学者によって犠牲者の生々しい姿が実現された。
それは火山層の中に残っていた犠牲者の空洞に石膏を流し込んで
石膏像を取り出す方法がとられたのだそうだ
苦痛・恐怖・絶望の表情もそのままで大惨事の瞬間が伝わってくる。



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レンガ造りと石造りの建物

絵から運びや(運送屋)の建物の一部とされている




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広場列柱の一部




近代都市と変らぬ古代都市ポンペイの姿は驚きの連続だった。
人生を突然悲劇の幕で閉ざされてしまったポンペイの人たちのことを思うと
今、生かされているだけで先ずは幸せなのだろうと思う。
延々と続く長い長い歴史の流れの中では人はわづか80年の旅人なんだなあとも思う。

世界史(苦手だった)で学んだ知識の断片・人名・地名・・・などが史実を目の当たりにすると
点~線へ線~面へとつながっていく。歴史を紐解く楽しさがわかった気もする。

私の心を紀元前の昔にいざなってくれたポンペイを後に・・・・ローマに向かった。